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人生朝露

人生朝露

ハイゼンベルクの機心。

荘子です。
荘子いきます。

Zhuangzi
『子貢南遊於楚、反於晋、過漢陰、見一丈人方将為圃畦、鑿隧而入井、抱甕而出灌、滑滑然用力甚多而見功寡。子貢曰「有械於此、一日浸百畦、用力甚寡而見功多、夫子不欲乎?」為圃者仰而視之曰「奈何?」曰「鑿木為機、後重前軽、挈水若抽、數如失湯、其名為棉。為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師、『有機械者必有機事、有機事者必有機心。機心存於胸中、則純白不備、純白不備、則神生不定。神生不定者、道之所不載也。』吾非不知、羞而不為也。」子貢瞞然慚、俯而不對。』(『荘子』天地 第十二)
→子貢が南の楚に遊びに行き、晋に帰る途中、漢水の南を通った。見ると、一人の老人が畑仕事をしている。地下道にわざわざ入っていって、甕を担いで上がってきては、畑に水を注いでいる。大変な重労働のわりに、その効果は少ない。子貢は「機械のからくりを知らないのですか?一日で百畦の畑にも水をあげられますよ。小さな力で効果は大きいのです。あなたも試してみませんか?」お百姓は仰ぎ見て「どうするのかね?」子貢「木をくりぬいて、からくりを作るんです。後ろは重く、前は軽く。小さな力で溢れるほどに多くの水を汲み上げられるのです。其の名を「はねつるべ」といいます。」お百姓は、むっとしたあとに、笑って答えた。「私は先生に言われたことがある。『機械がある者には、機械のための仕事ができてしまう。機械のための仕事ができると、機械の働きに捕らわれる心ができてしまう。機械の働きに捕らわれる心ができると、純白の心が失われ、純白の心が失われると、心は安らぎを失ってしまう。心が安定しなくなると、人の道を踏み外してしまう。』私は機械の便利さを知らないのではない。機械に頼って生きようとすることが恥ずかしくて、そうしないだけだ。」子貢は、自らのおせっかいを恥じて、返す言葉を失った。

またも、機心です。

鈴木大拙(1870~1966)。
≪ハイゼンベルクの本に『荘子』を引用したものがある。今から二千二、三百年ほど前に百姓が井戸を掘って水をくみあげて田んぼに撒いておった。すると、通りがかりの人が、「そんなのろいやり方でなくハネツルベをつかったらいいじゃないか。そうすれば少ない労力で今の仕事の倍はできるだろう」というと、その百姓、おれはいやだ。機械を使うと自分の心が機械的になる。これを機心というのですが、それになってしまうからいやだ、人間というものの価値、生命の意義というものが分からなくなってしまうからいやだというのです。これがいまあなたがいわれたことに当てはまるんです。アメリカのビール工場で働く人を見たが自動式になっていて人間は機械の一部になってしまっている。人間としての働きをしていない。クリエーティビティー、つまり、創造力というのもが出てこないのです。いまのオートメーションも人間を無視してしまっています。これでは人間はとても耐えられない。だから神経衰弱の人が多い。向こうで精神療法、サイコアナリシスがはやっているのも当然です。自然科学はいくら行っても行き詰まりにぶつかるに決まっていると思う。だがそれはそれでいい。自然科学には自然科学の使命があるからそれはそれで発達していけばよい。しかし、機械にだけたよると創造力がなくなってしまう。荘子のいう人間の労働の価値ということ。これを伴わない労働は人間を非人間にしてしまう。≫(鈴木大拙坐談集 第5巻 「科学と禅」より引用)

これは、鈴木大拙と物理学者・茅誠司(かや せいじ)さんとの対談からです。「機心」というのは、『東洋的な見方』以外にも、何度も鈴木大拙が口にした『荘子』の一節です。ここで、不確定性原理で有名なハイゼンベルクの名前が挙がっております。シュレーディンガーも『老子』を2冊持っていたと証言していますが、ハイゼンベルクの場合は『荘子』の引用がみられます。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg,1901~1976)。
ハイゼンベルクは1928年にインドを訪れ、アジア人最初のノーベル賞受賞者・詩聖ラビンドラナート・タゴールとも親交があったことでも知られております。ハイゼンベルクに東洋思想の素養があったことは、著作からも垣間見えますが、インドの思想のみならず、中国の思想にも注目しています。

量子力学と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057

ハイゼンベルクの本に荘子の引用があるのは、『『Das Naturbild der heutigen Physik(1955)』という本で、日本では『現代物理学の自然像』というタイトルで1965年にみすず書房から、尾崎辰之助さんの訳で発刊されております。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg,1901~1976)。
≪このような事情において、しばしば次のようなことが言われた。すなわち技術時代における我々の環境及び生活様式の深刻な変化は、われわれの思想にも危険な変化を与えたとか、われわれの時代をおびやかし、また、たとえば芸術にさえも現れている危機の根元は、ここに求められるべきであると。この異議はもちろん現代の技術と自然科学よりも古い。なぜなら、技術と機械はその原始的な形態ではすでに古くからあったので、人間はすでにとうの昔にそのような問題について考えさせられていたからである。たとえば二千五百年以前に中国の賢人、荘子はすでに人間に対する機械使用の危険について述べた。わたしはここに、われわれの課題に重要な、その一部を引用したい。
 「子貢が漢江の北の地方を通ってきたとき、かれは野菜畑で働いている一人の老人を見た。かれは水を引くために溝を掘っておった。老人は自分で泉へ下りて行き、水のいっぱいはった桶を抱えて上っていき、それを溝に流した。かれはとてもつかれ、なかなか仕事ははかどらなかった。
 子貢は言った。一つ仕掛けがある。それを使えば一日で百杯の水をまくことができる。あまりつかれずにたくさんの仕事ができる。それをつかって見る気はないかね。農夫は顔を上げ、かれを見て言った。いったい、それは何だ?
 子貢は言った。“後は重く、前は軽く木で作ったテコの柄を使うんだ。それを使えば、そのあたり一面に流れるほど水を汲みあげることができる。それはつるべ井戸というものだ。”
 そのとき老人の顔に怒りがあらわれた。そしてかれはあざ笑いながら言った。“わしはわしの先生がおっしゃるのを聞いたことがある。人が機械を使えば人は自分のすべての仕事を機械的に片付ける。自分の仕事を機械的に片付ける人は機械の心を持つようになる。人が機械の心を胸にもっておれば、その人から素朴さが失われる。素朴さを失った人は、その精神の制御が不安定になる。精神の制御の不安定は、本当の思慮分別とは調和しないものである。つるべ井戸をわしが知らなかったことを恥じるよりも、わしはそれを使うことを恥ずかしいと思う”。」
 この昔物語が少なからぬ真理を含んでいることはだれでも認めるだろう。なぜなら、「精神の制御の不安定」ということは、われわれが現在の危機の中にある人間の状態に与えうる、おそらくもっとも適切な表現の一つであるからである。技術、機械は中国のいずれの賢人も予想できなかったほど、広く世界に広まり、二千年後にもっとも美しい工芸を地上に発生した。そしてあの哲学者が述べた精神の素朴は全く失われたのではなく、世紀の経過のうちにあるいは弱く、あるいは強く現象の中にあらわれ、ますます実り多くなった。結局人類の向上は確かに道具の発達によって成就された。今日それぞれの立場における連鎖の意識が失われたことに対する根本原因は、とにかく技術そのものにはない。
 いろいろな困難の原因が、最近五十年間の突発的な、以前の変化に比べて異常に急速度な技術の拡大にあるとするならば、それは真実に近いであろう。なぜなら、前世紀に比べて急速度の変化が人間に、新しい生活状態に順応する時間を与えなかったからである。しかし、そのことをもってしてもなお、なぜわれわれの時代が明らかに一つの全く新しい、歴史上その比を見ない状況の前に立っているように見えるかは、正しく説明もされなければ、完全には説明もされない。
(中略)
  あきらかにわれわれの時代は、あらゆる生活領域においてこの新しい状況を甘受しなければならないという、課題を負わされている。そしてそれが到達されたときはじめて、中国の賢人が言う、「精神制御の安定」が人間によって再発見される。その目標への道は長く、かつ苦渋に満ちているであろう。そしてわれわれは、途上にいかなる苦しみの階段があるかを知らない。(以上 みすず書房刊 ヴェルナー・ハイゼンベルク著『現代物理学の自然像』人間と自然の相互作用の一部としての自然科学より引用)

参照:ハイゼンベルクと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005137/
原文はこちら。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg,1901~1976)。
後に、ハイゼンベルクが「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統と、『量子力学』が、根本的に似ているからなのかもしれません。」と、『物理学と哲学(1958)』の講義録の中で述べているのも、彼自身の思考の経緯と、東洋思想との関連性から見て不思議でもありません。

湯川秀樹(1907~1981)。
≪学問が画期的に進歩するためにはそれまで絶対に正しいと思われてきた考え方を捨てる必要が、今までも一度ならずもありました。上に述べた量子力学では不確定原理というものがある。もっと広くいえば、そこには確率という概念が入ってきているのです。それらは日本人には割合、受け入れやすい。西洋人にはなかなかむつかしい。確率とか不確定とかいうことが入ってくると、イエスかノーかと簡単に言えなくなる。イエスである確率はいくら、ノーである確率はいくら、というのは西洋人にとってはややこしいことなのです。のみこみにくい。ところがわれわれにとってはそんなことはなんでもない。本来曖昧模糊たる表現になれている。西洋の学者でハイゼンベルクなども、日本人には割合楽に量子力学が理解されるらしいが、なるほど東洋人だからやさしいのかもしれない、といっております。これはある程度あたっていると思います。(一九六四年六月)湯川秀樹著「父から聞いた中国の話」より≫

・・・湯川さんが気にしていたのもこの部分です。

参照:荘子とビートルズ その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5120/

湯川秀樹と渾沌。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5118/

今日はこの辺で。


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